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 有限会社中林牧場
 
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伊賀牛の由来
明治以前「役牛の飼育」
和牛は、鎌倉時代末期より役利用に使われ、牛の産地として、古くは、1310年の「国牛十図」に、大和牛として伊賀牛は記されています。江戸時代、津藩藤堂家五代高敏公が、家督を相続するにあたり、幕府に藩情を登申した産業調べの領内牛馬数は、

伊 賀 国 4375疋 男 牛 1596疋 女 牛 2779疋
伊 勢 国 4305疋 1938疋 2367疋
両 国 牛 数 8680疋 3534疋 5146疋

と記されており、古くから伊賀、伊勢の両国では牛が飼育されていたようです。
徳川時代に、伊賀地方より全国に派遣した、伊賀忍者の携帯用保存食として伊賀の天日干しを食して、体力づくりをしたとも伝えられています。
この忍者干肉こそ、伊賀肉の元祖であると言われております。
忍者の干肉

明治〜大正「肉用牛の誕生」
三重県では、明治19年、畜産振興を目的として、兵庫県但馬地方より種牝牛10数頭を購入し、県下各地に貸与が行われ同時に、各地で繁殖組合の結成が進められていたようです。
明治27年には、種牛の払い下げを条件に、各地で繁殖組合の結成が進められ、旧幕府時代から和牛の産地として知られていた、伊賀地方から本格的な肥育が始まり、地方への広がりを見せてきたようです。
その頃、牛の飼育目的は、役牛として利用すると同時に、その糞尿を肥料として利用することにあり、老廃牛に、雑穀や青草で増し飼いする方法で、僅かに肉の乗った程度の牛であったと言われています。
明治26年、金谷清三郎氏は東京の肉屋に奉公し、明治38年初めて伊賀より肉牛を東京へ出荷したとのことです。以後、肉牛の積荷は年々多くなりました。
大正12年、上野市茅町に畜産組合を創立し、祝市を7日間開催し、当時の、近郷及び東京地方より1日200名の畜産関係者が集まり、素牛及び肉牛販売が行われたとのことです。
この頃、1日2車、月間約400頭の肉牛が東京に出荷され、伊賀牛又は、(カネカ牛)の名声も全国的に高まったとのことです。
この印の牛は、優良な肉質と評判が良く、このの木札を拾って肉牛につけて売ると、その牛は高く売れたとも伝えられています。
こうして、今日の伊賀牛の基礎をつくった、金谷氏は、大正13年7月 64歳で死去。人と共に名はすたるの通り、伊賀牛も衰退し松阪牛の進出となったようです。
カネカ牛

昭和初期「生産の確立」
伊賀地域の農家は、耕地面積が大きいため、ほとんどの農家は役牛として、1頭を飼育していました。この頃は、但馬地方で生産された仔牛が、温暖な和歌山県紀の川地方で調教されて育った2才牛を導入していました。その後、農耕用として使役しながら、気候の良い水の清らかな伊賀の土地で、肉牛の素牛として育てられ、松阪方面及び、近江方面に出荷されていたようです。
昭和28年5月1日伊賀の肉屋さんが中心となり伊賀牛振興協議会を設立し、同年5月11日、全国肉牛共進会に戦後初めて伊賀牛として出品した肉牛は、厚生大臣賞を受賞しました。
昭和29年9月28日、自治庁主催の地方自治法施工記念事業が東京で開催され、全国名産品展示会にも参加しました。
伊賀牛 厚生大臣賞

昭和中期「組織の誕生」
組織的な「伊賀牛」の生産は昭和30年代に始まっています。当時農業の変化と農機具の発達により、従来の役牛としての価値が崩れ始め農家所得の向上をめざして、専業的な和牛肥育が芽生えてきました。昭和32年、肉牛の預託制度を取り入れ、当時、伊賀町壬生野農協で、私の父(光男)ら6名で15頭飼育の農家がグループを結成し、素牛の導入、肉牛販売の統一、肥育技術の研究等、共同実践が行われました。これが生産者による「伊賀牛」の組織的取組みの始まりとされております。
この頃、戦後の復旧がようやく整い牛肉の需要が急激に伸び始めました。また、素牛の確保も容易であり、肉牛肥育経営、所得も安定していたため、町全体に、さらには大山田村、阿山町、伊賀全域へと波及的な広がりを見せたようです。
各農協、経済連の推進努力により、昭和37年9月20日、以前に設立した食肉業会の伊賀牛振興協議会とは別に、管内関係市町村、関係農協及び関係農業団体が中心となり、肉牛の生産振興を目的とした伊賀産肉牛生産振興協議会が発足しました。
組織の結成とともに飼育頭数も増え、伊賀牛の名声も県内外で高まり伊賀牛の本格的な生産基盤ができました。
私(正悦)が高校を卒業した昭和41年頃より、農機(耕耘機)の導入が農家に浸透した結果、役牛が激減し、肥育素牛の確保が困難になってきました。素牛確保の解決策として、関係者で協議し検討を重ね飼育頭数の多い九州に目を向け、産肉能力、肥育の経済性等を検討し試行錯誤を繰り返しました。
結果として、伊賀牛は銘柄を確保するため、「黒毛和種」・「牝」・「処女牛」の条件を揃え、しかも但馬の種雄牛を利用している宮崎県産が適当であるということになりました。
昭和46年頃から、多頭専業化がますます進み、現在の肥育形態となりました。この肥育経営の拡大に強く影響を及ぼしたのが、各農協、経済連でした。
素牛の預託制度、飼料の貸越、牛の導入販売、飼育技術の指導と、系統の強みを発揮しました。飼育頭数が5,500頭に達したのもこの時期でした。しかしその後、昭和48年のオイルショックによる経営面の悪化から、生産農家の仲間が激減し少数農家の多頭化による銘柄生産となってきました。
石像と看板


昭和後期「技術開発への取組み」
昭和50年9月、私(正悦)ら27名が、次代を担う生産者の団結を図り意志を集結させ、技術開発を目的に、伊賀牛青少年クラブ(昭和56年青年部に改名)の結成に踏み切りました。それは、ただ伊賀牛を守り育てるという抽象的な目的のみではなく、現実的な目標をもち、研修共励会を開催し、飼養管理技術の確立と、技術革新に取組んで、現在の「伊賀牛」の肥育形態の原型となっております。 伊賀牛の肥育


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